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最高裁判所大法廷 昭和34年(オ)95号 判決

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人松田元市、同金田哲之、同田口俊夫の上告理由について。

労働者の賃金は、労働者の生活を支える重要な財源で、日常必要とするものであるから、これを労働者に確実に受領させ、その生活に不安のないようにすることは、労働政策の上から極めて必要なことであり、労働規準法二四条一項が、賃金は同項但書の場合を除きその全額を直接労働者に支払わねばならない旨を規定しているのも、右にのべた趣旨を、その法意とするものというべきである。しからば同条項は、労働者の賃金債権に対しては、使用者は、使用者が労働者に対して有する債権をもつて相殺することを許されないとの趣旨を包含するものと解するのが相当である。このことは、その債権が不法行為を原因としたものであつても変りはない。(論旨引用の当裁判所第二小法廷判決は、使用者が、債務不履行を原因とする損害賠償債権をもつて、労働者の賃金債権に対し相殺することを得るや否やに関するものであるが、これを許さない旨を判示した同判決の判断は正当である。)

なお、論旨は労働規準法一七条と二四条との関係をいうが、同法一七条は、従前屡々行われた前借金と賃金債権との相殺が、著しく労働者の基本的人権を侵害するものであるから、これを特に明示的に禁止したものと解するを相当とし、同法二四条の規定があるからといつて同法一七条の規定が無用の規定となるものではなく、また同法一七条の規定があるからといつて、同法二四条の趣旨を前述のように解することに何ら妨げとなるものではない。また所論のように使用者が反対債権をもつて賃金債権を差押え、転付命令を得る途があるからといつて、その一事をもつて同法二四条を前述のように解することを妨げるものでもない。されば、所論はすべて採るを得ない。

よつて、民訴四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官奥野健一の補足意見および裁判官斉藤悠輔、同下飯坂潤夫の反対意見あるほか裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

裁判官奥野健一の補足意見は次のとおりである。

労働規準法二四条一項は、賃金は同項但書の場合を除き、通貨で直接労働者にその全額を支払わなければならない旨を規定しており、このことは現実の履行をしなければ債権存在の目的を達し得ないものであることを示すものであつて、債務の性質上右賃金債権に対しては債務者は民法五〇五条一項但書により相殺することが許されないものと解する。そしてこのことは例えば労働者に対する不法行為による損害賠償債権をもつて相殺する場合でもこれを許さないと解すべきことは同様である。(民法五〇九条は不法行為に因りて生じた債権を受働債権として相殺することを禁止したものであつて、不法行為に因る債権を自働債権として性質上相殺を許されない債権に対して相殺することを許す趣旨でないことは明白である。)

また、労働基準法一七条は、労働者の人権保障のため、従来行われていた前借金と賃金との相殺の弊害を排除するため、特にこれを禁止する旨の規定であつて、その違反者に対しては六月以下の懲役又は五千円以下の罰金を科することとして、同法二四条の違反者に対する五千円以下の罰金刑より遥に重き刑を以て臨み、更に右二四条但書の如く労働協約又は書面協定による例外をも認めない趣旨であるから、同法二四条と一七条とは併存の理由があるものであつて、右二四条があるからといつて一七条が無用の規定となるものではない。

また、賃金債権の差押は四分の一の金額のみについて許されるものであり(民訴六一八条一項六号二項)、そして債務名義に基く強制執行として右差押可能の範囲において賃金債権を差押え、転付命令を得ることにより、たまたま相殺をなしたと同様の結果となるからといつて、かかる例外的な場合の発生を根拠として、一般的な相殺許容を認めるべしとの論は本末転倒であるという外はない。よつて本件上告論旨は理由がない。

裁判官斉藤悠輔の反対意見は、次のとおりである。

わたくしは、本件上告は、その理由あるものと考える。すなわち、労働基準法一三〇箇条中相殺に関する特別規定は同法一七条ただ一箇条のみであるから、同法条を除いてはすべて民法の原則規定が適用されるべきものであるこというまでもなく、しかも、民法上労働者の賃金債権に対して使用者が労働者に対する債権をもつて相殺をすることを許さないとの規定は存在しないからである。しかるに、多数説は、労働基準法二四条一項は、労働者の賃金債権に対しては、使用者は、使用者が労働者に対して有する債権をもつて相殺することを許さないとの趣旨を包含するものと解し、その債権は不法行為を原因とするものでも変りがないものとするのである。しかし、同法二四条一項は、賃金は、原則として、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならないと規定しているだけで、所論のごとき趣旨を包含するものとは到底解することができない。のみならず、もし多数説のごとく解するならば、上告理由も言つているように、同法一七条の規定は、明らかにその存在の理由を失い、全く無用の長物と化するであろう。多数説のように同法一七条を単に「特に明示的に禁止したもの」と解するだけでは同条の存在理由を説明するに足りるとは思われない。されば、奥野説は、右説明をもつて満足せず民法五〇五条一項但書により相殺をすることを許されないと弁解するようであるが、それはそれとして一応の説明のようであるが、しかし、かかる説明は、後に述べるがごとく、むしろ、民法五〇九条の精神に反する見解であるばかりでなく、かかる相殺をなした者は、労働基準法一二〇条により五千円以下の罰金(同法一一九条一七条の六箇月以下の懲役又は五千円以下の罰金よりは軽いけれども)に処せられるという結論になるもののようで、かくてはますます正義に反することになりそうである。(本件のごとく相殺した場合労働基準法一二〇条の罰則規定の適用がないと解すべき点から逆に同法二四条の規定はかかる相殺を許さないとの趣旨を包含するものでない立法趣旨であること明白であるということができる。)そもそも、原判決の確定した本件上告経済会の被上告人に対する債権は、背任なる不法行為による債権である。従つて、民法五〇九条により被上告人は、上告経済会に対し本件賃金債権をもつて相殺を対抗することは許されない。そして、同条の立法理由は、周知のごとく、不法行為の誘発を防止するにある。されば、もし、多数説のごとく労働基準法二四条一項による労働者の賃金債権に対しては、使用者は本件のごとき不法行為に因る債権をもつて相殺をすることが許されないものとすれば、結局労働者の不法行為の誘発を来すおそれがないとはいえないのである。これわたくしが多説説に反対する最大の理由である。

しかのみならず、被上告人の本訴で確定を求める賃金債権は、いわゆる破産債権であつて、労働基準法二四条一項ことにその二項がそのまま適用される場合ではない。従つて、複雑な破産手続によつて結局これが弁済を受けられるとしても、本件反訴請求のように本件確定後直ちに全額につき強制執行を受けられる(上告理由主張の本件賃金債権の四分の一の転付命令のほか)本件不法行為による損害賠償債務に比し相殺を禁止されることが必ずしも被上告人に利益であるとも考えられない。それ故、わたくしは、多数説に賛同できない。

裁判官下飯坂潤夫の反対意見は次のとおりである。

多数意見に対する反論としては、斉藤裁判官の反対意見を以て事足るわけであるが、私は多数意見に対し強い反発を感じているので、以下、私なりの反対意見を一言述べさせて貰い度いと思う。

民法五〇九条は不法行為に因つて生じた債務を負担する者はその債権者に対し相殺を以て対抗することを得ない旨明定している。けだし、不法行為に因る被害者保護の趣旨を以て、その救済に欠くるところなからしめんとする法意に出ているのである。それ故、もし仮に上告人がその主張のような被上告人の背任行為に因つて取得した損害賠償債権の履行を被上告人に請求したとする。被上告人はこれに対し本訴請求の賃金債権に基いて相殺を主張することができないことになるのである(民訴法六一八条、民法五一〇条所定の関係は別論として)。然るに本事案は被上告人が本訴請求の賃料債権の履行を求めたのに対し、上告人は右損害賠償債権を以て相殺の意思表示をしているのである。しかし、その結末は前の場合と同様になるのではなかろうか、すなわち、上告人は右相殺を以て被上告人に対抗できるということになるのではなかろうか、何んとなれば、民法は相殺に関し不法行為に因る損害賠償債権を特別に所遇している関係は前の場合たると、本事案の場合たると、その間に軽重の差あるものとは考えられないからである。いささか極端な事例をあげて説明するが、雇人が雇主に含むところがあつて、雇主の所有家屋に放火し、これを焼毀したとする、雇主は勿論、雇人に対し不法行為に因る損害賠償債権を取得するが、この場合雇主は雇人が給料の請求をしてきたならば右損害賠償債権に基き相殺を以て対抗できないであろうか、雇主は損害賠償請求権を保有しているから、できないでもいいだろうなどと論ずる向もあるが、雇人に対する損害賠償請求権などというものはえてして名目だけのもので、実のないものである。雇主は右債権の履行を請求してもおそらく満足な弁済を得ないであろう、この場合雇主が雇人に対し他に債権がありこれが履行を請求してきたならばこれと相殺させて右損害賠償債権の実行を収めさせる。民法五〇九条は実にこのような場合をも慮つての規定である。それが一面不法行為の防遏にも役立つのである。私は民法の立案者の深慮に対し今更のように深い敬意を覚えるものである。

多数意見は労働基準法(以下法とのみ言う)二四条が賃金はその全額を支払わなければならない云々とある規定を楯として、労働者の賃金債権に対しては労働者の不法行為に基く損害賠償債権を以てする相殺は許されないものであると解釈するのである。しかし、右にいわゆる賃金は全額を支払わなければならないとの意味は賃金は分割払をしてはならないとか、掛売代金と相殺してはならないとか、いうだけのものであつて、民法が前示のように特に所遇している不法行為に因る損害賠償債権を以てする相殺は許さないなどとは右条文はもとより、その他の規定においても一言半句も言つてはいないのである。もし法がそうした含みをもつているとするならば、法一七条は使用者は前借金その他労働することを条件とする前貸の債権と賃金とを相殺してはならないと規定しているのであるから、労働者の賃金債権に関しては不法行為に因る損害賠償債権を以てする相殺は許さない旨特にうたうべき筈である。それが民法に対する特別法たる法の当然にあるべき筋道であろう。然るに、そのようなうたい文句のないところを見ると法二四条は不法行為に基く損害賠償債権を以てする相殺に関しては何らタッチせず、その許否については民法の解釈に委ねているものと解釈するを相当と考えるのである。思うに、多数意見は昭和三一年一一月二日当裁判所第二小法廷判決の影響下に在るもののようである。しかし、右判決は多数意見も言つているとおり、債務不履行に因る損害賠償債権を以てする相殺に関するものであつて、本事案とはその内容を異にするものである。右判例は労働者の賃金債権に対する損害賠償債権を以てする相殺の中には本事案のような場合のあることを何らせんさくせず、漫然と「使用者は労働者の賃金債権に対しては、損害賠償債権をもつて相殺することも許されない」と断じ去つているのである。多数意見が右判例のひそみに何の躊躇もなく傚われたものとすれば、具体的案件毎にこれに即して法律解釈を示し、これを積み重ねてゆくべきものと信じている最高裁判所の態度としてはいささか速断に過ぎはしなかつたかと私は思料するのである。

(裁判長裁判官 横田喜三郎 裁判官 島 保 裁判官 斉藤悠輔 裁判官 藤田八郎 裁判官 河村又介 裁判官 入江俊郎 裁判官 池田克 裁判官 河村大助 裁判官 下飯坂潤夫 裁判官 奥野健一 裁判官 高橋潔 裁判官 高木常七 裁判官 石坂修一 裁判官 山田作之助)

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